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面白い研究がある。イギリスの歴史の教科書には複数の歴史解釈が書かれていて、諸説のうちどれを正しいと思うか自分で考えなさいというスタイルで授業が進行していくという。一方、日本も含めた東南アジアに多く見られるのが、教師や教科書が唯一の「正しい歴史」を教え、それを生徒に記憶させるという授業スタイルだ。この教育スタイルは、法律を慣習においてとらえる「慣習法」と、条文においてとらえる「大陸法」の伝統にそれぞれつながる。そして、前者のような教育を施している慣習法の国と後者のような大陸法の国を比較してみると、長い目で見て経済成長を継続しているのは明らかに前者だというのである。
「信念を貫け」「永遠に問い続けよ」というブッダの遺言 -脳科学者 茂木健一郎 人生最大の正念場、私を支えた一つの教え:PRESIDENT Online - プレジデント (via pentgram-jp)
「ほんとうの自分」って何でしょう?
 ときどき「私、ほんとうの自分を見失っていたわ」とか「ほんとうの自分を取り戻したいんだ」というような台詞がTVドラマから聞こえることがありますが、この人たちが言う「ほんとうの自分」とか「自分探し」とかいうのは、いったい何の話なんでしょう。
 ちょっと視点を変えて考えてみましょう。
 あなたのお父さんが亡くなったとします。
 葬式も終えて、あれこれの後始末も終わった後、ある晩ふと「私の父は、ほんとうはどういう人だったのだろう?」という疑問があなたの脳裏に浮かんだとします。
「父がどういう人間だったのか、私はほんとうに知っていたのだろうか? 私が生まれる前に父は何をしていたのだろう?」という疑問があなたの脳裏に浮かんだとします。
「父がどういう人間だったのか、私はほんとうに知っていたのだろうか? 私が生まれる前に父は何をしていたのだろうか? どんな少年時代を送ったのだろうか? 結婚する前にどんな恋愛をしていたのだろうか? 会社に行ってどんな僚友と働き、どんな仕事を成し遂げ、どんな失敗をした人なのだろうか? 私たち家族の知らないどんな生活を持っていたのだろう?………」
 そう考えているうちに、あなたは「ほんとうの父」を知らなかったということに気づきます。
 そしたら、どうしますか?
 まず父親の親戚や旧友や仕事仲間を探して訪ねて歩きますよね。そして、その一人一人の証言を積み重ねて、「父の像」を形成してゆきますね。それでいいと思います。そうするのがふつうです。
 では問いを変えてみます。それでは、あなたが「ほんとうの自分」を見つけようと思ったとき、あなた、何をしますか?
 あなたの過去をよく知っている人たち――家族や級友や担任の先生や先輩後輩や同僚――に片っ端からインタビューして「私って、誰?」と訊いて回りますか?
 まさかね。
 あなたはそんなことしません。あなたが「ほんとうの自分」を探しに行くのは、ニューヨークとかミラノとかバリ島とか、そういう「あなたのことを知っている人間が誰もいない土地」です。
 不思議だと思いませんか? 「あなたのことを知っている人間が誰もいない土地」に行かないと「ほんとうの自分」に会えないなんて。
 でも、実は不思議でもなんでもありません。
 それは「ほんとうの自分」というのがまるっきりの「作り話」だからです。
 ぼくたちが「ほんとうの自分」に出会うのは、ぼくのことをまったく知らない人間に向かって、「自分の過去」を物語るときです。「私のことをまったく知らない人間」じゃないと困るのです。だって、話すことは、嘘ばっかりなんだから。
 家族が聞いたら、「よくもそれだけ嘘が言えるわね」と卒倒しそうなデタラメをぼくたちは、自分のことを知らない人間を相手にしてなら、延々と語ることができます。
「私たちの過去の記憶は前未来形で語られる」というのは、ジャック・ラカンの名言です。
 ぼくたちが自分の「これまでの自分史」についてながながと聞き手に語るのは、話し終えたときに、「自分はこれこれこういう人間である」と聞き手に思って欲しいからです。これは聞き手の中にぼくにとって都合のよい自己像を植えつけるために、ぼくたちは過去を思い出すのです。
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